2009年度活動報告

【関先生という衝撃】

ネパール・パルパ県の道中の売店
で水を買う関先生(筆者撮影)
 関先生は、一言で言えば「変人」です。私と先生の出会いは、東京経済大学(以下、東経大)に入学したばかりの4月でした。今でも覚えていますが、入学直後の履修申請期間中に先生は「ネパール(研修)は初の試みで、今もまだ調整中です。何があるか知りません。なので、わかりません。とても過酷なのは確かです。インド(研修)は、はんぱないです。中途半端な気持ちで応募しないでください。とにかく覚悟して応募してください。」と、言葉とは裏腹にとても爽やかな笑顔で説明してくださいました。引率の教員が、何があるのか「知らない」「分からない」なんて、なんという告知をするんだ、と超衝撃でした。当時、何か経験して何か学んで何かを変えたいと日々鬱々と悩んでいた私(当時の私を関先生はよくご存知です。) は、この先生の話(脅し) を聞いて直ぐに応募しました。(※21世紀教養プログラムには、全学年対象のオフキャンパスプログラムというのがあり、ゼミとは別に夏休みに課外授業を行う科目がありました。希望すれば履修(参加)できました。

【インドの衝撃】 

マザー・テレサのお墓と祈る人たち(筆者撮影)
 ンド研修は、インド東部の都市コルカ(Kolkata)のマザー・テレサの施設でのボランティア活動をしながらホームステイをするものでした。マザー・ハウスは、カリガート(死を待つ人の家)が大変有名で代表的なものですが、私はシュシュババン(子供の家)という孤児の施設で朝からお昼ご飯までボランティアをし、お昼ご飯後は自由行動でした。到着したコルカタは、茶色でした。道は舗装されておらずデコボコ、車が通れば茶色い砂埃が立ちこめ、果たして収集するのか分からない茶色いゴミがところどころに点在し、川は濁流で茶色でした。狂犬病持ちの何のために生まれてきたのか分からない醜悪な野良犬がその辺を生気なくウロウロしており、犬と人間が全く互いを認知しない無視しあっている不思議な光景だったのを覚えます。ただ毎年、人が犬に襲われ狂犬病で亡くなる事例は発生しているので、特に夜間は犬を避けるため通行人による犬除けの「ピューーーーーッ」という笛の音がしていました、犬だけでなく先生の睡眠もまた、これに妨げられていたようでした。水でお腹を壊すということで、飲まないのは当然のことながら、シャワーを浴びる際も、目はおろか口は真一文字に閉じ、鼻からも入らないよう呼吸を止めるなどしていました。

高級ホテルのロビーで寛ぎながら一服する
ビジネスマン風の男性(筆者撮影)
サダル・ストリートというバックパッカーの聖地があります。観光客を騙すキャッチやスリ、腕がない・脚がないなどの障害者の物乞いなどで溢れていました。そんな怪しい目的を持った人達から、私たちは明らかにお金持ち(外国人)に見えたため、とっかえひっかえ親しげに声をかけられ、ひたすら、わけも分からず無視し続け歩くというストリートでした。カオスでした。そんなサダル・ストリートの中心地から一本入ったところに、超高級ホテル(名前覚えていません)がありました。ある日、関先生と一緒にトイレを借りたのを覚えています。ホテルは、コンシェルジュやセキュリティがいて、汗をかいたTシャツに短パンというラフすぎる姿の私たちでも笑顔で丁寧に挨拶してくれました(宿泊客ではなくトイレ借りるだけの冷やかしなのに)。ホテルはとても綺麗で静か、ほのかな花の香りに、さり気なくJazzが流れていました。ロビーには、白のYシャツを着た西洋人のビジネスマンと思われる方が、タバコをプゥぅッと一服しながらソファーで寛いでいました。たった一歩で、貧富の別世界、とても衝撃的な出来事でした。

訪問先の学校で興味津々の大量の生徒たちに囲まれながら、
日本語の数の数え方を教える筆者(関先生撮影)

インドは英語が公用語で、非常に訛りのきつい英語(当時の私は訛りも何も英語は全く解しませんでしたが)を話すことで有名ですが、カースト制度(身分制度)の影響で、まともに教育を受けられない人たちが大勢います。ある時、関先生と「Jail(刑務所)前」というバス停に行かなければならず、リキシャー(自転車タクシー)に乗りました。先生が値段交渉や行き先(何度も「刑務所前っていうバス停、バス停」と連呼)を伝えていましたが、理解できているのか全く不明で、リキシャー・ガイは険しい顔しながら「分かった」ような顔をしていました。結局、刑務所内に連れて行かれました。降りるときに「な、大丈夫だっただろ」的な超ドヤ顔されたのは良い思い出です。

 ある日は、現地の学校を訪問しました。全校朝礼で全生徒の前で校長先生と並んで登壇、日本の折り紙や空手などの文化を紹介する特別授業を行いました。授業中は他クラスの生徒達が教室前の廊下から中を覗いたり、校内を移動中のときは正に渦中の人の囲み取材状態。生徒たちから次から次へと日本についてバンバン話しかけられるという超人気芸能人が学校訪問すると、こんな感じなのかな、という貴重な経験をしました。自分 = 「日本」として見られ、外から見た「日本」のもたれている印象や認識、期待を初めて肌で感じた貴重な瞬間でした。また、別のある日の自由行動の時、折角だからコルカタの有名な観光地に行こうと思い、ヤギの首を切り落とし生贄として捧げることで有名な「カーリー寺院(Kali Temple)」に行きました。寺院に入ってすぐに「この寺院をボランティアで案内しているものです。」と「寺院ガイド証明書」なる身分証のようなカードを見せながら、男の人が話しかけてきました。「おぉ、そうかそうかボランティアならお金はかからないな、証明書も見せてくれたし。」と思いました。男の人は、寺院を見せて回り、ちゃんと案内してくれました。そして、最後に神様の前に通されたところで「ここでお祈りしよう。お布施を出せば神様が貴方の前に来て話を聞いてくださる(当時の僕は英語が分からなかったので、何となく場の雰囲気や表情でそんなような事を言っていると思いました。というかベンガル語だったかもしれません。)。」と言われ、言われるがままに野口英世を2枚と夏目漱石1枚(今はめっきり見なくなりました。)をお布施し、しばらく目を閉じました。目を開けると、なぜか置いたはずの英世と漱石はなくなっていますが、参拝できた満足感がありました。笑


騙された直後に連れて行かれた寺院向かいの謎の薄暗い店。
手前の白いシャツの男性が詐 欺師。というか他の人らも恐らく
自称ガイドの詐欺師たち。恐らく詐欺師たちの巣窟。一日中、
この基地からカモれそうな獲物がいるのか、観察して、
見つけ次第、出撃しているのだろうか。(筆者撮影)
案内してくれたガイドから「見て回ったから疲れて、お腹が空いただろう。」と言われ、寺院の向かいにある薄暗いお店に連れて行かれました。現地のご飯とチャイが出てきました。何故か御代はいい、と奢ってくれました。別れ際には、「バッグのチャック空いているぞ。気をつけて。」と注意までしてくれました。親切な人がいるものだな、案内までしてくれて奢って貰っちゃったし。と思っていましたが、もう皆さんお察しの通り、よくよくガイドブックの「カーリー寺院」の項目を読むと、「寺院のガイドを騙り、お布施と称してお金を騙し取る詐欺に注意。」と書いてあり、その時、全く一言一句その通りに「騙された!」ことを知り、超落ち込み凹みました(当時の自分が謎すぎて信じられません。)。ただ、野口英世2枚と夏目漱石1枚分も騙し取れると思ってなかったのか、はたまた、野口英世2枚と夏目漱石1枚が大当たりで気を良くしたのか、私があまりにも単純すぎて憐れに思ってくれたのか、何故かご飯とチャイを奢ってくれてカバンが空いていることも注意してくれたりと、上客()待遇でした(何か盛られているかもしれないご飯とチャイをのん気に飲食した当時の自分もどうかと思いますが、、、)。そんな鈍感にも関わらず、私は不思議と指摘されたカバンだけには「きっと注意して善人ぶっただけで実際は既に何か盗られた後なんじゃないか」ととてつもなく心配になり、カバンの中身は徹底的に何度も確認し、何も盗られておらず、ほっと安心してました。笑

【ネパールの衝撃】
垣見一雅(OKバジ)さんにご案内頂きながら文房具を
配る筆者(関先生撮影)
インドのあと、そのままインドからネパールに飛行機で行きました。先生は当時「ネパールからインドへ出稼ぎに来るくらい、ネパールはインドよりもずっと遅れている国、ネパールの人たちからすればインドは豊かで発展しいてる国。とにかくヒマラヤの自然はすごい。そんな国に今から行くんだよ。超やばいよ。」と仰ってました。インド研修がマザー・ハウスでのボランティアだとすると、ネパール研修は皆さんご存知のOKバジこと垣見一雅さんの御活動を実際に一緒に御伴してまわるというものでした。首都カトマンズからタンセンという雲よりも高地の山頂の町(設定がドラ村に行き、ご自宅を拝見、ご自宅といっても常にご支援で村々を行脚なされているので、あまりいらっしゃらないとの事でした。ラクエやFFに出てきそう)で垣見さんのお家のあるドリマラ村に行き、ご自宅を拝見、ご自宅といっても常にご支援で村々を行脚なされているので、あまりいらっしゃらないとの事でした。

大歓迎のムードの中、首輪をかけてくれるドリマラ村の子供(関先生撮影)

ドリマラ村 ~ サチコール村 ~ ポカリチャープ村 ~ リンネラハ村と、村々をヒマラヤの大自然の中まわりました。行く先々の村々、出会う人たち皆が、私たちを見て(いや、OKバジを見て)大興奮の大感激で、手作りの花輪を首からかけてくれたり、日本だとガソリンや灯油を入れるようなポリタンクに入れた謎のお酒(ウォッカのような蒸留酒)を振舞ってくれたり、夜通し踊り明かして大歓迎でおもてなししてくれました。 





あれがエベレストだっ!!と大はしゃぎでエベレストを
指差す関先生とポカリチャープ村 の人たち(筆者撮影)


貨幣も無い、電気も無い、水は下ったところの川から毎朝汲んでくる、という日本と真逆の生活環境で、村人たちは生き生きと、元気良く、活発で、疲れきってイライラしている日本人とは真逆の人間でした。ネパールの衝撃でした。こんな世界があるのかと、世界は広い、いろんな価値観があるんだ、いろんな価値観でいいんだ、と身をもって感じ大感動しました。関さん(先生と呼んでいたら、突然「先生と呼ばないで、呼ばれたくない。関さんでいい。それと敬語も止めてくれ。僕は偉くも何でもない。」と言われたので。流石に敬語は無理でしたが。)も同じように感じていらして、大自然の開放感もあってか大興奮・大感激で大はしゃぎでした。引率の大学の先生が小学生みたいで衝撃でした。あの時は、四六時中、関さんと二人、子供みたいにきゃっきゃきゃっきゃ、その興奮と感激をお互いに伝え合っては、同感し、その話を聞いたことで再び超感動超感激するという繰り返しでした。とにかく超絶、超気持ち良かったです。筆舌に尽くせません。

ノルウェーの団体に支援されて作られた蛇口で顔を洗ったばかりの
ポカリチャープ村の子 供(筆者撮影)
ある日のポカリチャープ村にて、朝から村人たちは、やたらと何だか嬉しそうに興奮しています。それは、その日は「豚」というご馳走が出るからでした(村では自給自足の生活で経済活動がほとんど無いので豚を買うお金が無い=大御馳走)。生きた豚を殺める、そしてその殺める主役は学生という話でした(ちなみにこの時のプログラムの一環です。)。詳細は割愛(聞きたければお話します。)しますが、捌いて(捌いたのは村人、殺めたのは私)串焼きにして食べました。村人たちは大興奮、子供たちは豚の血を付け合う鬼ごっこをして遊んでいます。現在、私はイスラム教が国教の国(豚は禁忌。汚い存在であり、食べることはおろか触ることさえタブー)で生活しており、豚の存在が、日本・ネパール・ムスリムのそれぞれでの扱われ方、見られ方、価値が大きく違うのだなと実感しています。

毎日、部屋を訪ねてきた目の悪いポカリチャープ村の飲兵衛おじさん。
言葉の壁かおじさんの性格なのか、毎日部屋にやっては来るものの1人で黙々と
謎に飲み続けていた。関先生があげた貴重な山崎のグラスと記念撮影。(筆者撮影)

食べるということ、食べ物、生きるということ、が何のうえで成り立っているのか大きく考えさせられました。「うわ、何て残忍な惨い事をするの」と私を超蔑視する人がいるかもしれませんが、結局、みんな生きている限り同じものを食べているんですよ。誰かが部位ごとに捌いてパック詰めの見慣れた形になるまでの工程をしているというだけのことです。ベジタリアンであったとしても、植物も生き物ですし。




私は、この時しか参加していませんが、聞いたところによると、移動のルートが過酷なのと、あまりに刺激的な内容過ぎたとのことで、翌年以降は、この時よりもマイルドになり、ルートも変更になったと聞きました。その後のゼミは、AAEEの設立、ベトナム研修等、皆さんご存知のような現在の関ゼミへとどんどん大きく御発展していっていることかと存じます。この時の超感動と超感激は、今でも本当に筆舌に尽くせません。今でも昨日のことにように思い出します。

ネパール語で、シャツにこんなに穴が空いちゃっているよー、とおどける垣見一雅(OKバ ジ)さん(筆者撮影)

2009年度、関ゼミの衝撃】

 もし、年度ごとにスローガンが決まっていたとするならば、2009年度関ゼミは「自主的英語学習への動機付け」と呼べるかと思います。学生が個々人でそれぞれ「自分はこうやって勉強したら英語が上達すると思う。」ということを報告しあい自ら実践して体現するというゼミでした。先生から生徒への一方通行な指導ではなく、学生自身が学習法やスケジュールを考えて、ゼミの時間は、それぞれがこれまでの勉強法や成果やモチベーションなどの変化を簡単な発表報告し、先生を始めその他のゼミ生が感想を言い合い、そのフィードバックを参考に発表者は自分の学習計画を必要と感じるならば軌道修正するといった感じのゼミでした(火曜日5限6限)。 先生は、非常にとても怖かったです。この恐怖が衝撃でした。ゼミ生の一言一句に真剣真摯そのもので、毎回手厳しいフィードバックがあり、ゼミの時間帯は1秒たりとも気の緩めない、張り詰めた空気が常に充満に漂っていました。勿論、ただスパルタの昭和よろしくな熱血根性指導とは全く別のものです(安心してください。)。過去の新潟時代の教え子の方々の英語学習日記のコピーを素晴らしい見本(新潟の先輩方ありがとうございます。)として配布したり、「学習のヒエラルキー」(以下「ヒエラルキー」)などを理論的に分かりやすく説明してくださったり、「僕はアメリカを学んだ」の著者である鎌田 遵さんを招いての座談会など、一人ひとりのゼミ生が自立して、ちゃんと自律した学習ができるように道しるべと刺激を与えてくださいました。「ヒエラルキー」は、人間は環境に左右される生き物なので、英語学習なら英語学習を自分の生活環境の中での優先順位を高める、というものでした(間違っていたら、すみません。)。例えば、寝る前に歯磨きして寝ますよね、歯磨きしないと気持ち悪くて寝つきが悪いですよね。つまり、そういうことです。笑英語を勉強しない日・英語に触れていないと落ち着かない、習慣化させるということです。また、「ヒエラルキー」から人間の記憶はインプットよりもアウトプット・受身よりも能動が明らかに定着しやすいということも学びました。それを踏まえ、先生は「いくらでもこのゼミの時間を使って、君たちに英語を教えることはできるけど、超効率が悪いし趣旨にそぐわない、そもそも君たち全員、教えたこと絶対すぐに忘れるから、君たちのためにならないし僕のためにもならない。時間の超無駄だからやらない。」と仰ってました。そもそもアウトプットはインプットがある程度できていないとできませんし、アウトプットすることで更にその記憶が上塗り(インプット)され、より強化されます。

「ぼくはアメリカを学んだ」著・鎌田 遵 とても素晴らしい本です。
読みやすいですし 、是非、読んで欲しいです。

例えば、Penultimateという 最後から二番目という意味の単語があります。一生懸命、暗記しようとインプットで覚えようとするよりも、ちょっと覚えたかなくらいのタイミングで誰か友達にでも「Penultimateて単語、知っている? 最後から二番目って意味の単語なんだけど、” Second from the last.” でいいじゃん。綴り長いし存在する意味ある?」とか会話(アウトプット)すると、不思議と一発ですぐ覚えて忘れません。※Penultimateは覚えなくても全く問題なく生きていけます(おそらく)。日本で生活すると、日本語をかなり求められる環境なので、得意・不得意関係無しに日本語が上達します。それは必然的に生きていくために常にインプットとアウトプットをひたすら繰り返すからです。ただ闇雲に英語を勉強するのではなく、如何にして、英語を自分の非日常から日常の自然なものにしていくか、その上で効率的な方法で自発的に英語と触れ合っていくか携わっていくか、というテーマで、先生の動機付けと理論のアドバイスを参考にしながら自分たちに合ったそれぞれの英語学習計画を立案していきました。

【社会で役立つゼミでの学び】

 関ゼミ・関先生を通して色んな経験や色んなことを学ばせて頂いたので簡単に一言で言えませんが、あえて一つ挙げるとすれば「飛び込む」ということです。私は、とても気が小さくビビリで優柔不断で、超フットワークの重い人間です。ただ関先生や関ゼミで「飛び込む」という事を身をもって経験してから、物事の見方や決断が変わりました。残念ながら、その時もう20歳くらいで人格形成されていたせいなのか根本的な性格は今も変わっていません。というよりも、自分自身の性格を「理解」した上で、関ゼミの経験がそんな自分の背中を後押ししてくれるといった感じです(無理矢理やろうとすると自暴自棄の原因になったり非常にストレスです。自分自身も「理解」してあげると良いと思います。)。今でも、超悩み、どうしようかああしようかと頭でっかちで優柔不断で、悩んでしまう自分に悩む人間です。しかし、学生時代を思い出し「まあ、とりあえずやってみよう。やってみてダメだったらその時考えればいい。やってみないと何も分からないから。」と割り切れるようになり、挑戦できるようになりました。
 これは、インド・ネパール研修に参加するという決断が全ての始まりだった事や関先生のお人柄から学ばせて頂いたからだと思います。お人柄から学んだという一例として、ネパール研修後、先生と私は学内でも国分寺駅でも、どこでも顔を合わせば、戦友に再会したかのようなテンションで「あれはすごかったよねー。今日何しているの?飲み行かない?」とよく飲みに連れて行ってくださいました。お互いに興奮冷めやらぬで、あの大感動を肴に、酒を水のように飲んでいました(先生は断酒されたので、これもまたもうできない貴重な経験ですね。)。私は、あのときの大感動を思い出し、余韻に浸って気分よく酔い痴れていただけでしたが、関先生は、ただの感情で終わらせるのではなく、実際にすぐに行動したのです。ある時、突然(それはいつも「突然」やってくる。)「山田くん、僕は決めた。団体を設立するよ。OKバジ(垣見一雅さん)に付いていくって決めた。付いていくからには本気でやるよ。僕は決めたからね。大学は当てにならない(当時の状況では)、個人で行ってもやれることは高が知れている。団体を設立するよ。」と、帰国後すぐに団体を設立しました。その団体こそがAAEE(Asia Association of Education and Exchange:一般社団法人アジア教育交流研究機構)です。最初は冗談かと思いましたが、本当にあっという間に設立されていて凄く驚きました。感動や経験をそのままにせずに形にする表現力、次へ繋げられる力、行動力が凄まじいな、と衝撃でした。そしてAAEEの最初の活動が、書籍『「笑顔の架け橋」ネパールから感謝をこめて』の出版でした(入澤大輔さんの「2008年度活動報告~関ゼミでの学び~」参照)。先生は、ずっと突っ走っています。なので、設立からの12年間、ずっと突っ走ってこられて今日のAAEEの大きな御発展があるのだと思います。「やらない」選択をするのは簡単ですし、「やらない」言い訳を見つけるのも簡単です。また、人間は「やらない」言い訳を見つける天才だと思います。毎日、身をもって感じます。笑
 ただ人生、何事も経験です。経験のない人生なんて味がなく面白くもないです。やらないというのは、やることによって得られるはずの貴重な経験をドブに捨てるだけです。人生一度きり、今この瞬間は一度きり、なので、とりあえずやってみる、行ってみる、読んでみる、言ってみる、聞いてみる等行動してみる。その行動から見えるもの、得られるもの、感じるもの、考えるもの、がまた経験です。食わず嫌いしている暇があったら、とりあえず食べてみる。食べてみて美味いと思うのも経験、不味いと思うのも経験です。そして美味いと思う人がいれば不味いと思う人もいる。どうやって作るのだろう、どんな食材を使っているのだろうと、興味がわき調べてみるという先の動機に繋がるかもしれません。とにかく「動く」「飛び込む」という姿勢が関ゼミの経験や関先生から培われたと思います。今社会で生きている自分にとても役立っています。

【現ゼミ生へ】

東経大で大学生活を送れているだけでも超幸運、さらに、その超幸運の中でも関ゼミに所属しているという超幸運中の超々幸運、自分はスーパー・ラッキーだと是非思ってください。過言じゃないです。笑
私は、東経大と関先生のおかげで、人生変わりました。人間が変わりました。世界が変わりました。今の自分があります。超怪しい痩せる薬のセールス文句みたいで胡散臭いですが、事実です。本当です。
 関ゼミでこれを言うのは元も子もないかもしれませんが、海外に行くこと、海外志向があることだけが素晴らしいということではないです。勿論、全く知らない世界へ飛び込み、全身で感じる学びは何事にも代え難い素晴らしい経験です。机上の講義や教科書や情報も大事だとは思いますが、それとは比較にならないくらい実際に自分で見て聞いて感じる経験、まさに「百聞は一見にしかず」です。「理解」しながら「行動」する。「行動」しながら「理解」していきましょう。
 ただ、何も海外に行かずとも自分の慣れ親しんだ社会にいても「他者」は「他者」ですし、違いを感じることや疑問を抱くことは少なくともあるはずです。海外に目が向いていて多文化を理解し尊重すること・しようとすることは本当に重要なことですし、特に国際化の進む時代で生きていくには、尚更、当然のこととして必要な経験と知識と視野・視座・視点です。しかし、それは海外だけのものではなく身近にも存在していて、遠い海外だろうが身近だろうが同じ「他者」です。随分ご無沙汰して失礼しておりますが、某お世話になった先生(英語の先生です)が、ある日の飲み会(酒席の話ばかりですみません笑)で仰っていたことを思い出します。海外にいると、「日本人と○○人」ちうようにまるで包丁でブツっと切られたかのように全く別物って感じだけど、日本国内にいても同じで、海外だろうが日本だろうがどこにいても自己紹介の時、自分の名前を名乗った次は出身地(国)で、それに対する相手の反応は「○○出身なんだ!」とか「東北なんだね!」「あ、○○(名産品)食べるんでしょ?」とか、ついつい自然と、ステレオタイプでその人の人となりを勝手に当てはめつつ、自分と「他者」として分けています。関係ない話かもしれません。ご年配の方なんかだと、今なんかよりずっと海外が遠く、他の都道府県ですらずっと遠かったことが関係しているのかは分かりませんが、出身のことを故郷(くに)といい「君、故郷(くに)はどこだい?」なんて聞いたりします(私は初めて聞かれたとき馬鹿正直に「日本です。」と答えて大爆笑されたことがあります。)。でも、それがまた、不思議なことに海外で出会う日本人は、日本のどこの故郷出身関係なしに、日本人同士であることに仲間意識が強く芽生え、ザ・日本グループが形成されたりします。海外と日本(自分が慣れ親しんだ世界)で分けて捉えるのではなく、「自分」と「周り」という視座で広い視野をもって欲しいと思います。決して海外志向や海外を否定しているわけではありません。その方が多くの気づきや学びが生じると思うからです。現に私自身は海外志向が強く、海外好きです。何事にも好奇心と感受性、挑戦を忘れずに大いに突っ走ってください。とりあえず飛び込んでみて、やれるだけのことをやって、スポンジになってガンガン吸収してから、自分なりの答えを見つけて欲しいと思います。私は関先生をはじめ東経大の先生方、学生生活を通して、様々な価値観に触れ世界が広がりました。何が正しい、何が間違っている、ということは無いので、自分で自分の枠を設けたり、限界を決めたり、何か間違いを恐れたり、周りに遠慮したりせずに等身大の自分が思うこと、感じることを素直に受け止め、またそれを臆せず発信して、大いに暴れて、大いに恥をかいて沢山後悔して欲しいです。関先生は、常に等身大で飾らず、子供のように超素直でピュアです。「変」はネガティヴな意味で良く使われていますが、私にとっては最高の褒め言葉です。「変わっているね。」は「ありきたりのありふれた、よくその辺にいる人じゃない何か特別な魅力が備わっている人だね。」という解釈だからです。「皆がそうしているから」とか「テレビで言っていたから」とかではなく、そういう情報を咀嚼して自分で自分の答えを見つけて欲しいと思います。最後になりますが、ありきたりのフレーズで、すみません。学生時代は人生で一度きりなので、よく学びよく遊び、ガンガン吸収して無駄なく過ごしてください。結局、無駄だと思っていたことも後で、無駄じゃなくて良い経験だったじゃん、て気づきますが。笑

※本文であえて「超」を多用しているのは、「超」を愛用する先生に敬意を表して。認識違いや記憶違いがありましたら予め御容赦ください。

【ページ作成の協力者】

先に言っときます。京都タワーではありません!クアラルンプール・タワーの前で、
飲み終わりそうなタピオカティーと筆者。

・山田圭人

・21世紀教養プログラム

・職業:30以上の国籍の従業員からなる某欧州系企業。マレーシア・クアラルンプール在住。現在はコロナで大いに勤め先の経営斜陽中。不安定な先の見通しのつかない状況の中、明日の我が身がどうなるのか大変な不安を感じながら6国籍7人のハウス・メイト達と都市封鎖(ロック・ダウン)生活中。

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