ネパール研修報告書(2)尊重の上での異文化交流


タイトル:尊重の上での異文化交流 
井上亮  
              

今回の研修を参加するにあたり、私はこの研修における個人的な目的を設定した。それはネパール文化における複雑性や単純性を実際に現地の人からの情報を頼りに探ることと、文化形成の源になりうる要素を自分の目で確かめることである。これは、私の個人的な研究に非常に重要な項目であり、内陸国で自然が豊かな特徴を持つ、いわば日本と異なる性質と似た性質を兼ね備えている国を調べることは、かなり役立つ情報を得られると考えたからだ。その上で現地の人との交流は非常に重要であり、今回の強力なパートナーシップを結ぶというゼミ研修本来の目的も、個人的にはかなり大切なことであった。今回は自分の研究についてではなく、その交流を深めた際での気づきについて述べていきたいと思う。私の研究内容に関しては総合研究ノートにおいて述べるものとする。

まず、私がリンネラハ村に訪れた時の交流について述べていきたいと思う。その時の私のホームステイ先は小学生の男の子がいる家庭であった。その子の英語能力は非常に高く、意思疎通するのに特に困ることはなかった。英語能力だけでなく、ほかの学問の知識も非常に優れていた。私が、ネパールの土地の肥沃さについて尋ねた時、学校の地図帳を持ってきてはその様子を事細かく丁寧に教えてくれた。ほかにも彼は非常に社交的で、非常に勤勉な性格をしており、自ら日本語を学びたいと志願したり、私の様子を常に気にかけてくれたり、冗談を言ったりと、外国人である私に対して親密に接してくれた。今回も彼が家族に日本人をホームステイさせたいと志願することで、その家庭でのホームステイが可能になったのである。彼のこの外国人に対する積極性や、意思疎通を図ろうとする姿勢は、私自身とても考えさせられた。彼の父親曰く、彼がこれほど外国人とコミュニケーションをとれるほど成長したことに誇りを思う、とのことであった。そんな彼とのホームステイ生活中に、私はあるカルチャーショックを体感することになる。それは、リンネラハの学校における、教育実習でのことである。私は、今回の研修のコーディネーターであるシティズ氏に頼まれ、和楽器の篠笛の演奏を教員含む校舎関係者全員の前で行った。その時に、静けさを尊重する演奏の中で、何人かのネパール人(主に教員)が、その中で話をし、笑っていた。私は自分の演奏を害された悔しさと、文化の違う人にもこの静けさの文化を伝えられなかった自分の不甲斐なさで悲しくなった。演奏の後、私はその場にいることができず、一番仲の良かったネパールの友人とともにその場を一時離脱した。その友人は必死になって私を励ましてくれ、何とか気分が落ち着いた。そのあとに私はクラウドファンディングにおける契約書の作成に携わり、精神的にもかなりきつい状態になった。そんな状態でホームステイ先に帰ると、あの少年が私に駆け寄ってきた。そして「亮の演奏、すごくよかったよ!すごく静かで綺麗な音で、とても感動したよ!」と、その感動を全身で伝えてくれた。この時、私はすべてのことが報われたように思われた。そして私は彼から、本当の“リスペクト”を教えられた。彼の私に対する姿勢は、ただ単に興味や関心があるだけで接するのではなく、自分の持っている能力でもてなしをし、実際に相手の文化を感じようとする姿勢だったと私は思う。英語能力や地理に関する知識で私の調査を助けてくれただけでなく、彼は私の演奏の真髄を無意識であろうと感じ取ってくれようとしてくれたのであった。異文化交流においてリスペクトが必要であると関昭典教授もおっしゃっていた。しかし私は頭では理解していたつもりで、実際には理解できていなかったのかもしれない。しかし、それを彼が私に身をもって教えてくれたのだと思う。私は彼に感謝を込めて彼の似顔絵とメッセージをかいたスケッチブックの紙を渡した。


“尊敬”という点において、私のあるネパールの友人についても述べたいと思う。今回関昭典ゼミが行ったクラウドファンディングについて、現地のネパール学生とも議論が行われた。彼らは今回のクラウドファンディングのことについて個々に真剣に考え、時には政治的思考の違いによりネパール人同士で討論が勃発するほどであった。翌日、私たちがホームステイ体験最初の村、マイダンに到着した時のこと、私はその友人とたわいもない話を二人で話していた。そんなとき、彼はふと、「亮、ネパール人は少し威圧的過ぎるかな?」と私に尋ねてきた。豆鉄砲を食らった鳩のようにあっけにとられた私は、なぜそのようなことを聞いたのか尋ねた。彼はネパール学生のその積極性に日本人学生は気が引けていたのではないかと思っていたようだった。実際、その議論に関しては、日本人学生はネパールの現状をよく知っているネパール人学生の意見に納得し、あまりそのことに口が出せないのが現実であった。その場において情報が欲しかった私たちとしてはその議論は非常にありがたかった。なので私は、そのような姿勢が議論を呼び、今回のプロジェクトをよりよくするのでとてもありがたいという旨を伝えた。彼は安心した様子を見せると、もっと日本人も話せるような環境を作るべきだと述べていた。私は彼のそういった、配慮の姿勢から多くを学んだと思う。
現状として、日本において日本人の非積極性が批判されている。しかし私は、日本には日本のやり方があり、外国には外国のやり方があり、それに随時合わせていくのは極めて困難である考える。その中で、互いの文化の中で互いの妥協点を見出し、異文化混合の集団の個々を配慮したファシリテーティングが重要になってくるのではないかと考える。

これらの他文化の人への尊敬を持ったアプローチは、グローバリズムであろうとナショナリズムであろうと、持ち合わせておくべき能力なのではないか。

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